R.I.P.

「三日後の降伏が決まったそうだ」
 部屋に入るなりコートを脱ぎ始める彼の第一声は、息苦しさをとうに越してしまった生活の終わりを意味していた。行き先は特に知らされていなかったが、本国からの伝令との会談を済ませてきたのだろう。髪にはまだ解けきらない小さな雪の粒が見えた。室温によって徐々に水滴へと変わり、さらに照明に当たっているせいで普段よりいっそう輝く金の髪を眺めながら、眩しいと感じる。外の明かりはひとつだって見えないから、彼が纏う光は、暗がりの中にやっと見つけた星のようで。まとめるように浸透して、それでも毛先から肩には決して落ちることのなかった雪の行方を見届けてから、ようやく、視線に気付いた。
「聞いているか」
「ああ。すみません」
 目を細め、口角を上げた俺に聞こえたのは溜息。続けて小言を並べられでもするのだと予想していた間に、意外な沈黙が流れた。眉間にあるはずだった皺もどこを探そうと見つからず、その代わりなのか、机の上で適当に畳まれた彼の上着。一歩近づいてそれに手を伸ばそうとしたところで、もう一度言う、と声がした。
「先発隊としてお前の隊を本国に帰還させることにした」
 話を全く聞いていなかったのではない。それなのに、掻い摘んで必要なことだけを告げたようにしか思えてしょうがなかった。普段であるならまだしも、これからの、これから生きていく上での詳細をこの人は何も話してくれていない。直感だが、これは外れようがない。
 全てを語ろうとしない彼の目を見続けて、数秒もしないうちに逸らされた。
「ちゃんと説明して下さい」
「三日後に降伏をすることが決まった。それからお前の隊を先に帰還させる。以上だ」
「だから、最初から最後までの説明を下さいと言っているんです」
 机を挟んでいたから良かったものの、上官だというのに掴みかかってしまいそうになった。それでもなんとか平静を保って、保った振りをして、彼の言葉を促す。しばらく考えたようで、いろんな場所に目線を動かしながら最終的に体をくるりと窓のほうへ向けてしまった。カーテンが閉められていない反対側の黒に映る顔を見ようと少し左に動いた時の微かな靴音で、窓に映っていた目が動く。合った瞬間に残り半分が勢いよく閉められた。
「明日の夜、お前たちがここを発った翌朝。他の全隊で攻撃を再開する」
 そのすぐ後だった。
 結局、背を向けられたまま発せられた言葉は、全身を巡り巡って、消化不良のまま体内に淀みだけを与える。
 
 本国でどういった報道がなされているのかは分からないが、この最前線で日々欠けていった人員を見てきたから、各地の状況を踏まえなくとも戦況は良くなるどころか、悪くなる一方なのは理解していた。彼がここの一番上に据えられてからそう時間は経っていないが、この間に互いの攻防は一度緩んでおり、敵にしてみれば今のうちに降伏しておかないと次はないぞ、という意味が含まれていたのだろう。本国でも戦いを続けるか、辞めるかの話し合いが何度も行われていたと聞く。そうして約一月かけて出した結論は、最善に見せかけた最悪だったが。
 つまり賭けに出るらしい。今この地を奪われたままに降伏するのは遺憾にたえない一方、無理に戦いを続けて隊を全滅させては恥だと考えた本国の会議では、うまくいかなかった時のための保険をかけ、さらに隊が全滅して本国に危険を及ぼすことのないように期限を決めて、戦いを再開することにしたのだという。その領地もどこかから奪ったものということも、そんな土地を争って一体どれだけが犠牲になり、今からどれだけ犠牲を増やすのかということも、部隊ひとつを駒のように扱い、人を人とも思わない連中は知りもしない。取り戻せれば幸運、残りが壊滅してしまえば不運。その程度にしか思っていないに違いない。
 
「取られたところは取り返せ、ということらしい」
 そんなの全滅という不名誉を避けるためだけの作戦じゃないか、と出かかった言葉は、彼を目の前にしてはさすがに留められた。幾つもを守ってきたと言うのに。諦めを決めて尚、机上で戦いをしている側はいつだって欲張る。せめて最後にと。その最後を手に入れるために払う犠牲があることを承知で、そのことも考えている、なんて大口をたたいて言いのけた様が、その場しのぎの大根役者よりもひどい演技だったことは容易に想像がつく。まだ嘘のほうがよっぽど良いくらいに。
「説明は終わりだ。明日の朝に招集をかける」
「待って下さい、まだ――」
「ああ、それと。お前は俺の代わりとして戻ってもらう。きちんとした引き継ぎはしてやれないが、そんなのは帰ってから何とでもなるだろう」
 未だに事態を飲み込みきれない俺に追い打ちをかけるように、彼は話す。少しも迷いなく、つらつらと並べられていく舞台劇の台詞みたいな言葉が頭に入るわけがない。
「どういうことですか?」
「……全部を俺の口から説明したところで、お前は納得しないだろうな」
 微笑みながら椅子に腰かけて、思い出したように外された手袋はあのコートの上に置かれた。机に積んであるもう必要のない記録書の束をとっては、一枚、また一枚とめくっていく彼は、それきり何も言おうとしない。来て欲しくない明日までの残り時間が、徐々に減っていくようで。時間だけが過ぎていく感覚がこんなにも恐ろしいものだったのだと知った。
 
「お前は違うと言ったが、俺たち、いや……俺にとってはお前が光だった」
 何を言うべきか、もしくはこれ以上何も言うべきではないのか、と言葉を出し損ねているのを見かねてか、彼は口を開いた。覆るはずのない決定事項に関して、これ以上話を続けてしまわないようにしたのだろう。あまりにも違いすぎる角度の話で、一瞬、息が止まる。
「ここまで来れたのはお前のおかげだ、と言ったところで重荷にしかならないんだろうな」
 畳みかけるようにそう言いきって、手持ち無沙汰を解消するためだけに見ていた紙から逸らされた彼の目が俺の目を射る。この痛いほどの視線を外してしまいたかった。外して、自分がどんなに非道い人間であるかを一切合財、吐き出してしまいたかった。そんなことをしてもどうにもならないけれど。誰かを助けたことはない。誰とも知らない誰かを殺したことしかない。守ったのは見知らぬ土地、守れなかったのは見知った仲間たち。そんな人間が、あんな風に言われてはいけないのだと、眩しいのは貴方のほうだと、言いたかった。
 
「上官として最後の命令だ。ここから生きて帰れ」
 一度も逸らされることのない視線に耐えかねた瞼が、何度かそれを遮ろうとして瞬いている。乾いた瞳が潤みそうになるのを必死で我慢しながら、この言葉を聞いた途端に、これまでのことが走馬灯のように蘇った。死んでしまうわけでもないのに、死ぬ間際に見るような、随分と昔のことからすぐ昨日のことまでが突然、頭の中で鮮やかに再生されて。ああそうか、と思い立つ。今この瞬間に、今日までの自分は死んだのだと。明日からは昨日までの自分ではない自分が代わりに生きていくのだと、思った。昨日までの俺では、彼や彼らの居ない場所で生きようとはしないだろうから。
 
「そうして、笑っていろ」
 
 命に軽いも重いもないということを一体どれだけの人間が意識しているだろう。この長く続いた戦いが終わった後に発表される死傷者のひとりひとりに心を痛める人は果たして居るのだろうか。
 俺だって、その何万人のうちのひとりになり得るのに。のうのうと生き残ろうとしている。もちろん、生かされることになった命を無駄にしようとは思わないが、大勢の犠牲の上に成り立った人生を出来ることなら歩きたくなかった。その大勢に誇れるような命の使い方が出来る自信なんてあるわけがないから。数えきれない命が肩に、背に乗ってきっと、動けなくなる。今でさえそうなのに、明日を考えるのが億劫で。でも、考えることのできる明日があることを当たり前だと思ってはいけない。すぐ近くにある明日やこの一歩を踏み出した次の瞬間にでさえ在ることが不確定なのだ。
 笑えと言った人の笑顔を見るのはこれで最後になるのだろう。彼が命を賭してまで守ったものが果たして正義だったのかも定かではないというのに。それでも、彼に託された明日を、未来を、裏切ってしまわないように生きるから。この願いや祈りが届くのなら、せめて。  
 
 
企画「When you were my super hero」/花原花緒

2style.net