その知らせを受けたのは、ずいぶん夜も更けた時刻だった。
もうそろそろ一人寂しくベッドに入ろうと、宵っ張りな彼が着ていたガウンを脱ごうとしていた時だったから、深夜といって差し支えない時間だろう。
(……明日は、いや、もう今日か。ソフィーが帰ってくるな…)
おせっかいで紳士な新人騎士のおかげで、最後の夜のチャンスを棒にふる結果となってしまったが、……あまりそれを残念に思っていない自分を彼は少し不思議に感じる。
「まさか枯れた……なんてことはないよね」
一瞬そんな恐ろしげな空想をしてしまい、ハウルは慌てて首を振った。
(ありえないありえない断じてありえない)
ソフィー二号のせいで単に興が殺がれただけだ。
――明日になれば本家本元が帰ってきて、また不自由で不本意な生活に逆戻りである。
「つまらないな」
ハウルはわざとそう声にだした。
……胸にわずかばかり生じた安堵感にも似た感情を追い出すために。
「もっと長く休めばいいのに」
いつもいつも一生懸命に働いているのだから、彼女はもっと娘らしく奔放に遊ぶべきだと思う。里帰りをするならいっそ一ヶ月ほど故郷でゆっくりしてくればいいのだ。
「ねぇ、あんただって本当はそうしたいんだろう?」
誰もいない寝室に、ハウルの声が吸い込まれた。
『わたしは働くことが好きですから』
今にもそんな声が返ってきそうなのに、今、ここに、彼女はいない。
いない人間に話し掛けるだなんて馬鹿な真似だ。
……だが、その馬鹿な真似をハウルは彼女が不在の数日間、一度や二度ではない回数、してしまっていた。
『そろそろお茶が欲しいな、ソフィー』
『ソフィー、あの書類どこに仕舞ったっけ?』
『ほらソフィー見てご覧よ、この記事』
ふとした日常に、彼女の影が映る。
いつも傍に居るから。
仕事をしている時には特に、そっと空気のように控えめにしているから。
口煩い面が目立つけれど、実際の彼女は同年代の少女たちよりもずっと落ち着いているし物静かだ。
さりげない気配りで、ハウルの日常を手助けしてくれている。
ソフィーは、そんな優秀すぎる侍女だった。
だから、何度も錯覚した。
いないのに、――振り返ればいつでもそこに居るような錯覚を。
その度に、小さな行き場のない喪失感が少しずつ胸の一角に溜まっていく。
(ばかばかしい)
もう一度、頭を振り思考を振り払った。
そんな風にもんもんとした思索に耽っていた時だ。
――王の呼び出しを告げる執務官の声に従い出向いた王の間で、まったく予想外で滑稽で望むべくもない縁談話を聞かされたのは。
* * *
理性を保てたのは、王の間を出るまでだった。
自分の足で私室に戻ったはずだが、王の間から私室までの記憶は曖昧だ。
荒れ狂う感情に支配されたハウルは、その感情をセーブすることすら一時放棄した。結果、記憶がしばらく飛んでしまったらしい。つまり端的に言えばぶち切れていた。
ただ、人々の悲鳴はわずかに耳に残っているし、我に返ったときの私室の荒れようは相当なものだったのでかなり酷い状態だったことは確かだろう。
早朝、部屋を片付けにきた掃除係の怯えようがそれを如実に物語っていた。
これでまたインガリーの『姫』の悪評が巷に流れるだろうが、そんなことはハウルにとっては小さなどうでも良いことだった。
臣下が自分を軽んじようと、城の住人がどう噂しようと、国民に蔑まれようと、ハウルにとっては瑣末なことでしかない。『男』の『姫』である時点で、自分は国の恥であり道化者なのだ。元が元なのだから、表面だけを取り繕ってなんになろう。すべてが徒労だ。
――しかし。
だからといって、男と婚姻するなど。
(ふざけるにも程がある)
私室のカウチに横になり、天井をぼんやり眺めていたハウルは額に置いていた手の甲で眼を覆う。
ナサケナイ。
酷い惨めさが、彼を襲う。
「好きにしろ、ってなんだ」
馬鹿にしている。
ならば、王は自分がもし望めば婚姻を許すのか。
――誰がそんな自由を望んだ。
自分が欲しいのは。
喉から手が出るほど欲しているのは。
そんな鎖に縛られた『自由』などでは決してないのに。
わかっていて。
あの父は、わざわざ思い知らせるのだ。
「……狸オヤジ」
どこにも『自由』などありはしないのだと。――永遠に。望むことすら愚かしいのだと。
まんじりともせずに夜を明かしたハウルの耳に、控えめな、だがどこか急いたノックの音が届いた。
掃除係のノックにも、執務官のノックにも、早朝訪れたサリマンのノックにも、どの音にも反応しなかった彼だったが、なぜかその小さな合図だけには体を起こす気になった。
ドアを開ければ、やはり予想通り彼の侍女が軽く息をきらせながら廊下に立っていた。
彼女の顔を目にしたとたん。
安堵よりも、酷く嗜虐的な気分になった。
それを隠すため、彼女と目が合う前に背を向ける。
だが、爆発的に生じた感情は、押さえが効かないものだ。
背後でドアが閉ざされる小さな音を聞いたとたんに、ハウルの口からは鬱屈した暗い声が滑りでた。……まるで、待ち望んでいたかのように。醜い顎を大きく開き、そこへ哀れな獲物が飛び込んでくるのを、今か今かと切望していたように。言葉は奔流となって、彼の喉から迸り出た。何かを求めて――。
「男に求婚されるだなんてとんだお笑い種だよね」
部屋に差し込む光が疎ましかった。
「あんたも僕を笑いにきたのかい?」
世界のなにもかもが疎ましかった。
「違……」
「笑えばいいよ。僕だって笑える」
自分自身さえ、――そして気遣わしげにこちらを窺う侍女の存在さえ。
なにもかもが疎ましく、
「こんな滑稽な話、聞いたこともない」
すべてを呪いたい最悪な気分だった。
「本当に、バカバカしくて笑えるよ!」
何もかもぶち壊してやれたら、どんなにかすっきりするだろう。
堅牢な城も、美しい庭園も、整然とした城下町も、――国も。
心優しい……だが、今はその優しささえ疎ましい侍女も。
「あんたはいいよね。いつだって言いたいことを言って、やりたいようにやって、好きな時に好きな場所へ行けて、誰を愛したって誰に咎められることもなくて……!」
「姫……」
「同情してくれるかい? あんたは口煩くても心根は優しいもんね。……でも、時に浅はかな優しさは人を傷つける凶器にもなるんだってあんたは知っているかな」
きっと彼女は、本当には理解していない。
ハウルの抱える闇を。
彼女は、親身になっているようでいて所詮彼の表面だけを見ているただの他人でしかない。
いつだって簡単に城から出て行ける、『自由』なただの他人でしかないのだ。
彼女を縛るものなどなに一つないのだ。この場所には。
そんな人間からの上っ面な慰めなど、どうして聞きたいものか。
「頼むから、これ以上僕を惨めにさせないでくれ。しばらくあんたの顔は見たくない」
ハウルは感情の赴くままに、生の声で命じた。
「出ていってくれないか?」
背後で、扉の閉まる音がした。
どこまでも控えめな、静かで悲しげな音だった。
その音を聞いたとたん、ハウルの中に激しい後悔が生まれた。
酷い焦燥と、自戒と自責の念にかられ、慌てて振り向くが……。
しかし、当然、そこにはもう彼女の姿はない。
――たぶん、永遠に。
ひどい虚脱に襲われた彼の手が、握り締めていたカーテンをすべり落ち、だらんと両脇に垂れさがる。そして彼の体は、ふらりと力なく窓へ寄りかかった。
太陽の温もりを含んだカーテンが、じんわりとハウルの心を責めたてているようだった。
(最悪だ……)
最低だ。
十近くも年下の女の子に八つ当たりして酷い言葉の数々をぶつけた……。
どうしようもなく傷つけたくて。
どうしようもなく傷つきたくて。
己を哀れみ、……愚かな恥ずべき真似をした。
(僕はソフィーに何を言った?)
彼女には、何の落ち度も罪もないのに。
まるで彼女がすべての元凶かのように矢継ぎ早に責めはしなかったか……。
長旅で疲れていただろう彼女を労わることもせず、ただ、自分の鬱屈を善良な侍女へと感情の赴くままにぶつけた。
そして。
――あのいつも口煩くて遠慮のないソフィーが、一言も、返してこなかった。
「見捨てられたかな……」
ハウルは疲労感を感じて目頭を押さえた。
徹夜した頭はどこかぼんやりと霞みがかかっている。
(……それでもいいけどね)
心の声はまるで負け惜しみのようだった。
「僕は独りだ」
ずっと独りだった。
これからも、そうなのだろう。
それはそれでいい。
もう諦めている。
ただ。
生まれてこの方こんなにも自分が嫌になったことはない。
こんなにも、深く何かに悔いたことはない。
純粋な侍女を傷つけただろうことが、何よりも、彼の心に重く圧し掛かった。
ハウルは窓からゆらりと体を起こし、寝室のドアを開け、自分のベッドへ倒れこんだ。
(……もういい)
目を瞑り、――なにもかもを放棄する。
後悔も焦りも自己弁護も、痛みも。
眠りがすべてを癒してくれるだろう。
たとえば悪夢にうなされようとも。
今の状況よりは、まだきっとそちらの方がマシな気がした。
ハウルは、小さな声で呪文を唱えると強制的に自分の思考を閉ざしたのだった。
……どれくらい休んだだろう。
次に彼が目を開けたとき、すでに日は沈みかけていて室内は薄闇色に染まっていた。
強引な眠りだったからか、あるいはハウルにしては長い睡眠時間だったからか、寝起きの頭はいつにもまして働きが鈍い。
あまり深くは考えず、なんとなく惰性で起きだして、彼は寝室を出ようとした。
ところが――
扉がなにかの障害物のせいで開かない。
ノブは回るのに、開かない扉は寝起きのハウルを苛立たせた。
(へぇ、僕を閉じ込めようって腹かい?)
よくよく考えればそんな必要性はないのであるが、鈍っている思考はえてして間違った方向へ答えを導きやすいものだ。
勘違いをした彼は、力任せに(八つ当たりともいう)ドアを開こうとした。
意外にも、あっけなくドアは開いた。
が。
同時に、開かなかったドアの向こうで小さな悲鳴と誰かが倒れるような物音が聞こえた。
慌ててハウルは物音の正体を確かめるために顔をだす。
……そこには床に両手と膝をついた間抜けな格好のソフィーが、いた。
「――あんた一体なにやってんの?」
「な、なにって、姫が急にドアを開けるから……」
少々恨めしそうにその間抜けな格好のまま彼女が振り向き、寝起きのハウルの姿を見て気まずそうに視線を逸らす。
ハウルの質問が、そんな単純な意味ではないことに気付いたのだろう。
まるで叱られた子供のように頼りなげな情けない表情で唇を噛み、仕える主人の命に背いたことを詫びた。
「申し訳、ありません。顔も見たくないんでした、よね。でも――」
縋るような眼差しが、ハウルを捉えた。
「あたしは、……姫の侍女、だから」
どうか傍に居させてください……。
続いた声は、まるで宵闇に溶けいりそうな微かで心もとない声だった。
「――」
ハウルの胸の奥にふんわりとした温もりが宿った。薄暗闇に揺れる小さなランプにも似た、ともしび。その温もりが徐々に全身へ広がっていくに従って、ささくれだっていた神経が不思議と静まっていった。
「あんたって本当にバカ正直だね」
『あんたは僕付きの侍女なんだからちゃんと傍にいなきゃダメじゃないか』
この忠実な侍女は、きっとあの言葉を覚えていて、――そして実行したのだろう。
馬鹿がつくほど正直で真面目で忠実で……お人好し。
「あ……の、ひめ……ハウル様は、……」
「ああもういいよ。どうせあんたはろくでもないことしか言えないんだから無理に慰めようとしなくていい」
「な……っ」
それはあんまりな言い草だろうとソフィーの目は正直にハウルを非難していた。
(……うん、あんたはオドオド僕の顔色を窺っているよりも、そうやって勝気そうに目を吊り上げていた方が似合うよ)
口元に自然な笑みが浮かんだ。
何一つ解決してはいないのに、そんな風に笑うことができる自分を不思議に思う。
だが今はそれを深く追求することはせずに、胸に宿る温かさに浸りたい気分だった。
満ちた真珠色の月から光のしずくが零れ落ちるまでは――。
END