2style.net




 キスは、十一回めだった。若さと夏とにうるおったくちびるとくちびるを、秘密の約束を交わすみたいに、そっと重ねあわせる。たったそれだけのかわいらしい口づけを十度にわたって繰りかえし、おさないふたりはそれでもう、何かを大切に閉じこめる檻と鍵とを一そろい用意した気になっていた。慣れない熱にめまいを起こし単純にその先を見る余裕がなかったのか、それとも展望したうえでまだその時ではないと判断を遅らせていたのか、の違いこそあれ。ふたりしてぎこちなく積みあげた、かげろうのようにぐらぐら傾ぐ十の前例。それを勇敢にも先に突きくずしたのは、目をくらませていたはずの緑間のほうだったので、黄瀬は応えるよりも前に、まず驚いて、ああ先を越されたな、と己の悠長さをほんの少しだけ悔いた。カルピスの味が、する。
 細かい雨がさらさらとレースのカーテンみたいに靡いているのが、室内からもわずかに聞きとれた。それゆえに蒸す夕べだった。エアコンの除湿機能が懸命に働いてくれたおかげで、じっとり湿っていた肌もようやく少しずつ乾きはじめた、ちょうどそのころのことだった。部屋に入るなりベッドの縁に座るよう促され、そのまま黄瀬は身じろぎひとつせずに、緑間のひとつひとつを眺め、そして待ちうけていた。ガラスの水槽の中に潜む、ひらひら惑いながら泳ぐ生きものの一挙一動を、じいっと見とどけ、記録するようにして。
 ふたたび部屋を出て階段を下りた緑間は、やがてふたり分の飲みものをその手に持って戻ってくる。水玉模様の入った、細長い汗っかきのグラスふたつ、テーブルの上にことりと置く。黄瀬の感謝の声を聞きながす。きっと彼の母親が水で割ってこしらえてくれたのであろう、白く甘ずっぱい、男子高校生のたどたどしい色情の象徴のような液体で、喉を一度、ごくりと音を立てながら濡らす。再びグラスを置いて、黄瀬の左隣に深く腰かけ、目もとにわずかな赤みと水分を含ませ、十一度めに向かって、ゆるやかに接近してくる。
 黄瀬はしずかに、両のまぶたを閉じた。それまでの予想されえた展開が滞りなく実行されたことに安堵し、それからの予想されうる展開に身を委ねることを受諾して、観察者が観察をやめた瞬間。その瞬間のことだ。真っ白な情欲に浸された、緑間のひんやりとした舌が、希うような貞淑さで、黄瀬のくちびるをそっと割りひらいたのだった。
 ああ、先を越されたな。腕に載るひりひりとした感覚が、黄瀬の理性的な判断をかろうじて眠らせなかった。氷を浮かべたグラスに冷やされた緑間の右手に、いつの間にか左腕を拘束されていた。逃れることはおそらくとても簡単な、ゆるみきった手枷ではあったけれども。閉じたままにしていた前歯に、やわらかな先端がふつと触れる。水槽の蓋を、ぱしゃぱしゃと、しなやかに跳ねる魚の尾が叩く。踏みだすことを、そして踏みいることを、許してはもらえないだろうか――確認をとる遠慮がちなノックが、黄瀬の輪郭を伝って頭の中まで響いた。請われている。恋われて、いる。
 このままイエスもノーも示さずに焦らしていたって、きっとこじ開けるような真似はされないだろう、と黄瀬にはわかっていた。無理やりにでも主導権を奪いとるような真似は。けれど、ほとんど手首に引っかかっただけの外れかけた枷を、虫でも払うくらいの気軽なデリカシーのなさで捨てさってはぐらかしてしまうことが、できるような頃合でも、既にないだろう。そんな気がしていた。なにせ、縋るように纏わりつく緑間のゆびさきが、痛いくらいに、つめたい、のだ。
 阻まれて一旦後退しかけたやわらかい尾ひれを、媚びた艶めかしい手つきで強引に引きとめるみたいに、黄瀬は己のあつい舌先を伸ばして絡めとった。許すよ。許してあげる。来たいのならば、来ればいい。
「ん」
 緑間の鼻孔から、くぐもった呼吸の音が漏れる。甘かった。何もかもが、甘く打ちよせていた。招きいれた舌からは清涼な乳酸菌飲料の味がじゅわりと染みだして、渇いた喉にみずみずしい果汁を注ぎこんだみたいだ。侵入者の湛えた一時的なつめたさはすぐにふやけて鋭さを失い、黄瀬のあたたかな口内の温度と同化していく。衝動をやさしく封じていた鍵は脆くも砕けちって、内と外との境界が、一気に曖昧になっていく。もはや重なるだけでは、積みあげられるだけでは、なくなったのだ。熱が、ふたりの熱が、混じりあう。溶けあう。高めあう。欲しあう。
「は、」
 完全に開けはなたれたドアの隙間から、苦しげに泳ぎでてくる吐息は、一瞬のうちにもう、どちらのものともつかなくなるのだった。たどたどしく手を繋ぎあうふたりのちっぽけな感覚器官は、全身をめぐる波を生みだして、ふたつの体を貫くひとつの昂揚の循環を成しはじめている。遠くで雨の鎖がねじれる音と、適温を保つためにときどき停止してはまた息を吹きかえすように作動するエアコンの風とが、ふたりのいる部屋を薄いラップですっかりくるんでしまう。熱に浮かされた耳と皮膚とで認識できる世界の範囲を、極限まで狭めてしまう。頭の中にうるさいくらい反響するこもった水音は、水槽の中と外とを何度も行き来する魚の、舵を失った劣情という名の魚の、ただただ暴れて溺れゆく音だろうか。
 ふたたびのノックが、響いた。腹の辺りにわずかな振動と、かすかな衣擦れの音を感知して、どうせ緑間の顔以外には何も見えやしないのに、黄瀬はほとんど反射的にうっすらと目を開ける。役目を負わずに持てあまされていた緑間の左のゆびさきが、黄瀬のシャツの表面をかすめたのだと、すぐに理解した。緑間の長いまつげは軽く伏せられて、呼吸とともに小刻みに震えている。陸に上げられた魚がじたばたと前後不覚に跳ねるように、酸素が足りないともがく手が、偶然にも黄瀬の腹部を撫でたにすぎないのだろうか――そうではないことくらい、ふたりの乱れたリズムに揺すぶられて喘ぎつづける熱っぽい空気の膜が、ものも言わずに教えてくれている。
「ね、みどりまっちはおれと、……おれを、抱きたいんスか」
 胸をそっと押しかえして息継ぎをねだると、くちびるはゆっくりと離れていった。紡いだ声は不恰好に浮動している。肩が上下しているのはお互い様だった。しっとりと露を孕んだ、緑間のまつげは、目覚めの時のように緩慢な動きでその頭をもたげ、その奥でにじむ翠のひとみが、めまいに襲われたようにくらくら白んで揺らいでいる。揺らぎながら、黄瀬を、黄瀬だけを、とらえつづけている。
「……ああ、そうだ」
 若さと夏とにうるんで紅潮した目もとに、射ぬかれていた。――ああ。許すよ。許すしか、ないだろう。
 白い壁紙の、ふたつの細長い水槽になみなみと注がれたカルピスと同じ情欲の色が、スローモーションで背景を流れていく。自分の体がベッドの上へ倒れていくのを、倒されていくのを、黄瀬は水底から空を見あげるように、遠くぼんやりと、感じていた。切なく身をよじる声が、「きせ、」と名前を呼んで、金いろの目もちかちかくらんで役に立たない。もう一度だけ確かめるように触れてくる、もうつめたくなどないゆびさきを、黄瀬はしずかに、両のまぶたを閉じて待ちうけていた。




ffffff