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「そろそろ日も暮れてきたし、今日はもう帰ろうか。」 「そうね。それじゃあ、今日は解散。お疲れ様。」 令のその言葉に祥子が賛同して、今日のお茶会はお開きになった。 窓の外を見れば、真っ赤な夕日が今まさに沈もうとしているところだ。 「それでは、私は後片付けして帰りますから。」 そう言って乃梨子は自分のカップを流し台に持って行き、それに続いて皆が流し台に空のカップと小皿を置いていく。 乃梨子はそのまま流し台に立ち、飲み残された紅茶を流しへと流していった。 「乃梨子ちゃん、いつもありがとうね。」 不意に声を掛けられて心臓が一瞬飛び跳ねた。聞き間違えるはずも無い、あの人の声。 振り返ると、そこには祐巳が優しい笑顔を浮かべて顔を覗き込んできていた。 それを見てますます心臓の動きが激しくなり、まともに顔も見れなくなってしまった。 「べ、別に嫌じゃありませんし…。」 「でも、毎日しっかりとやってくれてるから、なんか悪いなー…って。」 「…い、いえ、こういうのは年下の役目ですから…。」 話しかけられて嬉しい。でも、恥ずかしくて辛い。そんな思いが心の中で渦を成す。 そんな乃梨子の様子も知らずに、祐巳はニコニコと無垢な笑顔で話しかけてくる。 「あれ、乃梨子ちゃん顔赤くない?」 「へっ?」 乃梨子が素っ頓狂な声を上げて祐巳の方を向いたら額に少し冷たい、それでいて暖かい感触が触れた。 見ると、祐巳が自分の額に手を当てながら乃梨子の額に手を当てているのが目に入った。 「ちょっ…祐巳さま!?」 「うーん…熱は無いみたいだけど…大丈夫?」 「だっ、大丈夫です、大丈夫ですから。」 心配そうに見てくる祐巳を誤魔化そうと、無理矢理平静を保とうとして返事を返した。 内心ではもうオーバーヒート寸前なのに。 「…そう?」 「はい。ですから、心配はご無用です…。」 「…ならいいけど…。」 「祐巳、そろそろ帰るわよ。」 乃梨子が祐巳に平静を保って相手をしていると、不意に祥子の声が耳に入ってきた。 その方を見ると既に乃梨子と志摩子以外の皆が帰り支度を終えているところだった。 「あ、はい! お姉さま!」 祐巳はまるで仔犬が主人に呼ばれたように満面の笑顔で祥子に近寄っていった。 それでやっと祐巳に解放されて安心した気持ちと、離れていってしまったことの寂しさ、そして僅かな嫉妬心が複雑に絡み合う。 「それじゃ、ごきげんよう。乃梨子ちゃん、志摩子。」 「ごきげんよう、祥子さま。」 穏やかな笑顔でそう言ってから祥子は外へと出て行き、すぐ後に祐巳もいそいそ帰る準備をして小走りで扉へ向かって行った。 と、ドアノブに掛けた手を一旦止めて、乃梨子の方へと向き直った。 「乃梨子ちゃん、紅茶、美味しかったよ。」 「っ…! い、いえ、どういたしまして…。」 満面の笑みでお礼を言われて、再び乃梨子の心臓がドクンと飛び跳ねた。 こういう事を平気でやってのけるから、片思いしている身としてはたまらない。 少しの間、心を静めてから再び扉の方を見ると既に祐巳の姿はなくなっていた。 「…行っちゃったか…。」 そう呟いて、乃梨子は洗い物を片付けようと流し台の方へと向き直った。 ガチャガチャと洗い物を片付ける音が、志摩子と乃梨子だけがいる会議室に響き渡る。 乃梨子が流しでカップ類を洗い、志摩子が洗い終わったカップ類の水気を拭き取る…そんな流し作業が続いていた。 ふと隣を見れば、いつものマリア様のような微笑を浮かべたまま志摩子がカップを拭いている。 西日が映えて、まるで一枚の宗教画か絵画のような、神秘的な光景。 普段ならそのまま見入ってしまいそうだ。しかし、今はその美しい志摩子の光景に見入れるような心境ではなかった。 頭に浮かぶのは、祐巳のことばかり。 (…いったい、いつからだろう…。) 気が付けば、いつも祐巳を目で追っていた。 持ち前の明るさ、優しさ、意外と(って本人に言ったら怒られそうだけど)強い芯の強さ、そのあどけなさ…。 その華奢な体の何処にそれだけの力が秘められているのだろうと疑問に感じていた。 そして、志摩子へのとは種類が違うけど、憧れも。でもそれは、いつしか憧れから違う感情と変わってしまった。 ちょっと話しかけられたりするだけで、心臓がドキンと跳ね上がる事が増えていって…そして、気が付いた。 これは憧れなんかじゃなくて、恋なんだと。祐巳が無意識のうちに気付かせたんだ。 そして、それは今も現在進行形で育っていっている。 いくら否定してもそれはどんどんどんどん、まるで花が急速に育っていくように…。 それから程無くして、洗い物は全て片付いてあとはもう帰るだけになった。 「それじゃあ乃梨子、もう帰りましょうか。」 志摩子が一足早く帰る準備を終えて乃梨子にそう言ったが、乃梨子はまだ帰る準備が少し整っていなかった。 「あ、ごめんちょっと待って志摩子さん。」 やがて帰る準備を終えていざ帰ろうと乃梨子も立ち上がったが、ふと、床に一本のシャーペンが落ちているのに気が付いた。 「あれ、シャーペンだ。…誰のだろ。」 乃梨子はそれを拾い、誰のだろうとよく見ようとした。 しかし、それはしっかりと見ることも必要ないうちに誰のシャーペンかが分かってしまった。 (…これ、祐巳さまのだ…。) シャーペンにしては珍しい銀色で、それでいて上品なデザインのシャーペン…それは祐巳が使っていたものだった。 今日もそれを使って仕事をしていたのだから、見間違いではないだろう。 それを手にしながら、乃梨子はどうしようかと色々な考えが交錯する。 (えっと…どうしよう、届けた方が良いのかな…でも、たかがシャーペンでそこまでしても迷惑だろうし…。) そこまで考えて、またしても邪な考えが湧き上がった。でもさすがに、それは少しマズイと感じられる。 (…“たかが”シャーペン…別に一本ぐらい…。…いや、でもさすがにそれは…) 乃梨子の中の天使と悪魔が、心の中から囁きかけてくる。 天使は「シャーペンでも持って帰っては駄目だ」と、悪魔は「たかがシャーペンの一本ぐらい、無くなったって分かんないよ」と。 (…一本ぐらい、いいかな…いや、でもやっぱり…。) 「…乃梨子、どうしたの?」 「っ!? い、いや、な、なんでもないよ!」 直立不動でいたままの乃梨子を訝しげに感じた志摩子が乃梨子に声を掛けた。 不意に話しかけられた乃梨子は驚きで声が裏返ってしまい、それと同時に反射的にそのシャーペンをポケットの中に押し込んでしまった。 なんとなく、ばれてはいけない様な気がして。 「そうかしら…何だか息が荒いようだけど。」 「い、いやだな志摩子さん。なんともないからさ、もう帰ろ!」 不思議に乃梨子を見てくる志摩子を誤魔化そうと、不自然な笑顔でなんでもないように取り繕う。 志摩子は不思議に思いながらも、そのまま乃梨子に流されるようにして乃梨子と共に薔薇の館を後にした。 「…祐巳さまが使ってたシャーペン…。」 乃梨子は手に握られているシャーペンを見つめながらそう呟いた。 結局悪魔の心が勝ってしまい、祐巳のシャーペンを持って帰ってしまったのだ。 祐巳が使っていた物が手に入って、確かに嬉しかった。 しかし、それと同時に人として誉められない事をしてしまった事への罪悪感も乃梨子の心に重く圧し掛かる。 乃梨子はベッドに横になり、それを胸元に握り締めたままベッドにごろんと横になった。 「…祐巳さま…。」 シャーペンを祐巳に想像して、それを思い切り抱きしめる。しかし、所詮シャーペンはシャーペン。 生身の人間の感触が返ってくるわけもなく、返ってきたのは無機質なシャーペンの感触と冷えた空気の寒さ。 今度は自分が祐巳と一緒に仲睦ましく自分を想像してみたが、その祐巳の隣にいる自分はどうも不定形にしかイメージされなかった。 初めは自分でも、すぐ他人に摩り替わってしまう。 それは祐巳の姉である祥子だったり、由乃や可南子、瞳子、果てには自分の姉である志摩子まで…。 いくら想像してみても、仲睦ましく祐巳の隣にいる自分を上手く思い描くことが出来ないのだ。 祥子は姉であるから当然だし、由乃や志摩子は祐巳の親友。瞳子と可南子は将来の妹になるかもしれないのだ。 …しかし、自分と祐巳を繋ぐ接点は、彼女達と比べるとあまりにも細すぎる。 自分は同学年ではないし、可南子や瞳子のように特別親しい後輩ではない、単なる山百合会の後輩で…。 そう考えると、自分が祐巳の隣に躍り出るほどの役どころじゃないと感じられてしまうのだった。 その事実が乃梨子の胸を深く痛めつける。 「…胸が痛い…ホントに痛くなるんだ…。」 厳密には心が痛いだけなのに、まるで銀の刃が胸を貫いたような鈍い痛みが走る。 別に、シャーペンが胸に突き刺さったわけでもないのに。 それを紛らわそうと、さらにシャーペンを握る手に力を込めた。 しかし、その手に返ってくるのは祐巳の指ではなく不安が絡んでくるような感覚が襲ってくるようだった。 (…気を落ち着かせなきゃ…。) このままではどうにかなってしまいそうになり、ベッドから起きてインターネットで気を紛らわそうとパソコンの電源をONにした。 一分ぐらい経っていつものデスクトップ画面に切り替わり、まず初めにメールをチェックしようとメールボックスを開く。 そこにはあいにくタクヤ君からのメールは無く、代わりに数件の出会い系サイトからのメールが届いていただけだった。 (…今は一人との出会いだけで精一杯だっての…。) そう心の中で毒づきながらその迷惑メール類を削除していく。 次にインターネットでお気に入りに登録してある仏像サイト等を適当にクリックしていく。 しかし、お気に入りのサイトが新しく更新されていてもどういうわけかあまり心が躍らない。 …いや、インターネット自体が全く面白くなかった。どの仏像サイトを見ても、お寺の公式サイトを見ても、全然感動できない。 気を落ち着かせようとインターネットを始めたものの全く落ち着かず、それは全くの無意味に終わってしまった。 乃梨子は少し落胆しつつ、パソコンの電源ボタンを直接押して強制的にパソコンを閉じてしまった。 ちゃんとした手順で消さなければならないのに、今の乃梨子にはそんなことをする余裕が無かった。 「…ああ…。」 乃梨子は天井を仰いだ。 気が付けば祐巳のことを考え、ちょっとした祐巳の動作で感情を揺さぶられ、どんな時でも祐巳の顔が思い浮かぶ…。 まるで一人で恋に踊らされている気分だ。それも、とても上手とは言えない、下手くそな踊り。 そんな自分が、情けなく感じられて、他に何かもっと気を紛らわせれるものは無いかと、部屋を見渡した。 すると、いつか両親に手紙を送ったときに使ったレターセットの残りが目に入った。 「…手紙…か…。」 「えっと…祐巳さま…突然ですが、わたくし、二条乃梨子はあなたのことを愛しております…。」 乃梨子は、レターセットに残された便箋を一枚取り出して祐巳へのラブレターを書き始めた。 別に祐巳に渡すつもりは無い。強いて言えば、何となく。何となく、書きたくなっただけなのだ。 その便箋に、乃梨子は自分の思いを残さずに全て書き続けた。少しは自分の祐巳への想いが整理されるかと少し期待しつつ…。 ……数分後。 「…何、これ…。」 やがて便箋いっぱいに祐巳への想いを書き綴ったそのラブレターは、とても整理された文章ではなく支離滅裂な文章であった。 それも読み返せば顔から火が出そうな、恥ずかしい内容。もしこんなのが菫子に見つかれば、数週間は笑いの種にされてしまうだろう。 「……。」 少しそんな自分とラブレターに呆れつつも、その文章で祐巳に告白している自分を想像してみる。 (…祐巳さま、突然ですが、わたし二条乃梨子はあなたのことを愛してます。あなたのその可愛い姿、声、性格…全てが…) 「…頭痛くなってきた…。」 駄目だ、とてもロマンチックとは言えそうにない。ラブストーリーというよりは、単なる歪な喜劇の一場面にしか見えない。 その歪な喜劇の台本を乃梨子はビリビリに破いてゴミ箱の中に捨て去った。 後に残ったのは、ただの空しさと自分へのバカバカしさ…もう、何度こんな事を繰り返しているのだろう。 「…もう寝よう…。」 乃梨子は精神的に疲れ果てて、寝るには少し早い時間だがそのままベッドに横になって目を閉じた。 寝ている間なら、この想いも見て見ぬ振りできるだろうと思って…。 早い時間に眠りに着いたせいか早くに目が覚めてしまい、いつもよりも早く乃梨子は学園に着いてしまった。 かと言って、さっさと無人の教室に行ったところで大して面白くもないだろう。 そう思って、教室ではなく薔薇の館へと向かうことにした。 どっちも無人に変わりないだろうが、薔薇の館で紅茶でも飲んだりしていた方が少しは暇が潰せるから。 …それと同時に、祐巳に会えるかもしれないという淡い期待もあったのだけれど。 薔薇の館に入ったとき、微かな違和感を感じた。 無人だと思われていた二階の会議室から何か物音が聞こえてきたのだ。 「…こんな時間に誰が…?」 普通こんな時間に来る人はそうそういない。 朝から会議がある日なら既に誰かが来ていてもおかしくは無いが、そんな予定は聞いていない。 その物音は二階への階段を上っている間も聞こえ続け、上がりきってもその音は途絶えることは無かった。 不審に思いながらも、乃梨子は会議室の扉を開けた。 「きゃっ!? …って、乃梨子ちゃん!?」 「ゆ、祐巳さま!?」 扉を開けると、テーブルに潜ったまま驚いてこっちを見ている祐巳と乃梨子の眼が合った。 会えるかも、と淡い期待を抱いてきた乃梨子だったが、まさか既に来ているとは思ってなかったので乃梨子も同じように驚いてしまった。 「の、乃梨子ちゃん、どうしてここに?」 「ちょっと目が覚めたのが早かったので、早く来たんですけど…祐巳さまは何をなさってるんですか?」 「うん…ちょっと探し物。」 祐巳は相変わらずテーブルの下に潜ったまま辺りを見回しながらそう答えた。 辺りを見てみると、椅子などはテーブルの外に置かれており、テーブルクロスもテーブルの下を見やすくなるように外されている。 この探し様だと、よほど大切な物なのだろう。 「祐巳さま、私も手伝いますよ。」 少しでも祐巳の力になれればと、少し微笑みながらそう言った。 その乃梨子に、祐巳は申し訳無さそうに首を振る。 「え、そんな悪いよ乃梨子ちゃん。」 「良いんですよ。どうせ暇を弄ぶつもりだったんですから。こっちのが暇も潰せますし。」 「…そう? それじゃ、頼んじゃおうかな。」 笑顔でそう言われては断ることは出来ず、祐巳はそれを頼むことにした。 それを聞いて、乃梨子も少しは自分のポイントが上がったような気がして心の中で小さくガッツポーズをとった。 「それじゃあ続きを始めましょうか。何を無くしたんですか?」 「シャーペン。」 「…え?」 シャーペン。 乃梨子の聞き間違いでなければ、祐巳は確かにそう言った。 シャーペンって、まさかあのシャーペンのことだろうか。 「…えと、そのシャーペンはどんな感じの形ですか?」 「えっと…銀色で、ちょっとオシャレな感じかな。」 間違いない。祐巳が探しているシャーペンは昨日乃梨子が持ち帰ったものだ。 「…しゃ、シャーペンですか…。それにしても、何でそんなシャーペン一本でこんなに?」 乃梨子は、動揺しているのを悟られないように平静を装って返事を返した。 「…まあ、普通はそう思うよね。でも、あのシャーペンは特別なんだ。」 「それは、どういう…。」 「あのシャーペンは、お姉さまが海外のお土産で買ってくれたの。二人お揃いで使いましょうって。」 「お揃い…。」 そう言われてみると、祥子も祐巳のと似たようなシャーペンを使っていたような気がしてきた。 その時は祐巳のことばかり気に掛けていてあまり気に止めておらず、単なる偶然だろうというぐらいで済ませていた。 それと同時に、大切な物を盗んでしまった事実が分かって全身から血の気が引いて行くのが分かった。 「乃梨子ちゃん、どうしたのボーっとして?」 「え…いえ、何でもないです。続きをしましょう。」 「うん、そうだね。」 意識を現実に戻し、探し物を再開しようと祐巳を促す。 それに促されるように、祐巳も見つかるはずのないシャーペンを探し始めた。 探し物をしている(ふりをしている)間に時間はあっという間に過ぎ、もうそろそろ朝の予鈴が鳴る時刻になってしまった。 「あーん…なんで見つかんないんだろ…。」 「…祐巳さまのご自宅じゃないんですか?」 がっくりとうな垂れる祐巳に、そう乃梨子は言葉を掛けた。 知ってる人から見れば、白々しいことこの上ない内容の台詞だが。 「昨日もそうかと思ってカバンの中とか部屋中ひっくり返してみたんだけど…。昨日までは確かにあったはずなのに…。」 「……。」 祐巳の一言一言が深く胸に突き刺さっていき、まともに顔を見ることも出来なくなってしまった。 祐巳の探しているシャーペンは、今も乃梨子の筆箱の中に入っている。しかし、とても今渡せるような雰囲気ではなかった。 「…祐巳さま、そろそろ教室に向かった方が良いですよ。」 「…でも…シャーペン…。」 「…またお昼か帰りにでも探してみましょうよ。遅刻したらマズイですから。」 「…うん…分かった…。」 そう言われて、祐巳はトボトボと落ち込みながら部屋を出て行った。 その後姿は一目見て分かるくらいに思いっきり沈んでいた。 「くっ…!」 祐巳が出て行った後、乃梨子は自分のしたことが許せずに壁をダンッ、と思い切り殴りつけた。 手がズキズキと痛むが、今はそんなことを気にしている心境ではない。 「…何…やってんだよ私は…。」 見つかるはずのない探し物を手伝い、白々しい台詞で適当に誤魔化して…ここまで自分が卑怯な人間だと思ったことは今までなかった。 やがて授業開始のチャイムが薔薇の館にも鳴り響いたが、乃梨子の耳には届かずにその場から動くことはできなかった…。 あれから考えて、乃梨子はやはり祐巳にシャーペンを返すことにした。 最初は昼休みに返そうかと思ったのだが、その時も踏ん切りがつかず結局見つかるはずのない探し物をまた手伝ってしまった。 その同じ日の放課後、乃梨子はペンを返すため薔薇の館へ向かう祐巳を捕まえて校舎裏まで来てもらった。 「どうしたの、乃梨子ちゃん?」 「ええと…その…。」 もし自分が持ち帰ったことを知られたら、どう反応するだろうか。 怒る? 軽蔑される? …悲しむ…? そう思うと、なかなか話が切り出せなかった。 「乃梨子ちゃん?」 祐巳は、なかなか話を切り出そうとしない乃梨子を不思議そうに見つめていた。 その瞳は純粋なもので、ますます乃梨子の心を締め付ける。 「あの…祐巳さま…。その…。」 「なに?」 「その…なくしたシャーペンって…これ、ですか…?」 やがてその罪悪感で堪らなくなって、乃梨子はシャーペンを取り出した。 それを見た祐巳の目が大きく見開かれる。 「あー! これだよこれ! 見つけてくれたの!?」 「え…あ…はい…。」 「うわー、ありがとう!! もう本当にどうしようかと思ってたんだ!!」 真実を知らない祐巳は本当に嬉しそうに、乃梨子に抱きつかんばかりの勢いでお礼を述べた。 その様子を見て、乃梨子の胸がますます締め付けられる。 このまま黙っていれば、自分は祐巳からの好感度を大きく上げられるかもしれない。 でも、こんな卑怯な手段で上げてしまってもいいのだろうか。祐巳を騙し、困らせて…。 目の前の祐巳はそんな乃梨子の心中も知らずに、大はしゃぎでそのシャーペンとの再会を喜んでいた。 (…駄目だ…こんな純粋な人を騙すことは…出来ない…。) 「乃梨子ちゃん、本当にありがとう! どこで見つけてくれたの?」 「……。」 「…乃梨子ちゃん?」 乃梨子は顔を下に向けたまま、祐巳の顔を見ようとしない。 祐巳はその乃梨子を不思議に思って乃梨子の顔を覗き込んだが、すぐに顔を背けられてしまった。 「え…乃梨子ちゃん…?」 「…すいませんでした…!」 「え…?」 いきなり謝られて、祐巳の頭に大きな疑問符が浮かんだ。何故謝られなければならないのか、全く分からない。 「…違うんです…見つけたんじゃないんです…!」 「えっと…それってどういう…。」 持ってきてくれたのに、見つけた訳じゃない…その意味が全く飲み込めず、祐巳はますます混乱していく。 「…それ…私が昨日持って帰ってました…!」 「え…ええっ!?」 告げられた真実に、祐巳は驚いて思わず大声を上げてしまった。 それはそうだろう。乃梨子のことなんて、全く疑ってはいなかったのだから。 「…もっと早く返そうかと思ってたんですが…こんなに遅くなって…! すいませんでした…!」 「自分のと間違えて持って帰っちゃったの?」 「…いえ…! …私は…私は…祐巳さまのと知ってて、持ち帰りました…!」 手が白くなるほど強く拳を握り締め、震える声を搾り出すようにして告白していく。 まともに祐巳の顔を見ることが出来ず、どんな表情かは全く分からない。 「…なんで、持って帰ったりしたの…?」 「…それは…。」 そう問われて、乃梨子は口ごもった。何で持って帰ったか…理由は単純で、最も言い辛い事だ。 かと言って、嘘をつくことは自分の心が許さず、どう言えば良いのか分からなくなった。 「……それは…。」 「…私のこと、嫌いだから?」 「え…?」 予想していなかった祐巳の言葉に、乃梨子は思わず顔を上げて祐巳の顔を見た。 その表情からは怒りや憎悪といったものは感じられず、悲しそうで、今にも泣き出しそうな顔をしている。 「…私のことが嫌いで、それで困らせてやろうって、それで持って帰ったの…?」 「なっ…!?」 乃梨子は祐巳の言い出したことを聞いて、大きく戸惑ってしまった。 違う、そんなんじゃない。何で自分が祐巳を嫌わなければならないのか。むしろ、好きで好きで堪らないというのに。 「…ごめんね乃梨子ちゃん…。私、知らないうちに乃梨子ちゃんに嫌われるような事してたんだね…ごめんね…。」 何を思ったのか、祐巳は悪かったのは自分の方だと思い込んで乃梨子に謝り始めた。 まて、これではまるで逆じゃないか。祐巳は全く悪い事などしていないのに、何故自分が謝られなければならないのか。 「乃梨子ちゃん…ほんとに…ごめ…」 「止めてください!!」 乃梨子はこれ以上祐巳から一方的に謝られ続けるのが堪らなくなって、大声で祐巳を止めさせた。 祐巳はその声に驚いて口を止める。 「の、乃梨子ちゃん…?」 「違う…違うんです…! 祐巳さまのこと、嫌いなんかじゃありません…!!」 「じゃあ、なんで…。」 …もうこれ以上は誤魔化せない。誤解を解いて分かってもらうには、もう告白するしか道は残されていなかった。 乃梨子は俯いて、手の平に爪が食い込むぐらいに強く拳を握ると、搾り出すようにして口を開いた。 「…好きだから…。」 「え…?」 「祐巳さまのことが…好きだから…!」 「…好き…って…ええ!?」 「…祐巳さまが好きだから…祐巳さまの使っていたペンだって分かると、それが欲しくなって…それで、勝手に…!!」 ポタ、ポタと乃梨子の目から大粒の涙が溢れ出した。 なんてみっともない告白の仕方なんだろうと思うと、情けなくて惨めで堪らなくなる。 「本当に…本当にすいませんでした!」 「あっ、乃梨子ちゃん!!」 乃梨子は居た堪れなくなって、その場から逃げ出した。涙で視界が滲むが、それでも構わず走り続けた。 別に、どこか目的の場所がある訳ではない。強いて言えば、人目に付かない、それでいて祐巳から遠い場所。 とにかく、こんな卑怯で惨めな自分の姿を誰にも見られたくなかった。 走り続けて行き着いた場所は、銀杏並木に一本だけ生えた、あの桜の木の下だった。 かつて志摩子と知り合った時には満開だった桜の木も、今では落ち葉が落ちていくだけの寒々しい存在である。 それがまるで、自分の恋の終わりを告げている様に見えて、それだけで胸が痛くなってきてもう一度涙が溢れ出した。 「うっ…うぁ…あぁ…!」 額を幹に押し付け、嗚咽を漏らしながら乃梨子は泣き続けた。 痛い、胸が猛烈に痛い。どうせ叶わぬ恋だったんだから、もっとこの気持ちが浅いうちに終わらせてしまいたかった。 そうすれば、ここまで辛い思いをすることもなかったかも知れないのに。 それに、あんな告白の方法はあんまりだった。 祐巳を困らせ、騙して、傷付け…それから告白なんて、昨日想像した歪な喜劇の方がよっぽどマシだ。 「…あんな事…するんじゃなかった…!」 「…乃梨子ちゃん?」 不意に、自分を呼ぶ声が耳に入ってきた。聞き間違えるはずの無い、祐巳の声。 「…祐巳…さま…?」 「びっくりしちゃったよ。いきなり逃げてっちゃうんだから…。」 その声は別に責める様でも咎める様でもない、穏やかな優しい口調だった。 祐巳は相変わらず背を向いたままいる乃梨子に近付こうと、一歩踏み出した。 その際、地面に落ちていた落ち葉がガサ、と音を立てて乃梨子の耳に入る。 「…来ないで下さい!」 祐巳のほうを向くこともせずに、祐巳にそう言い放った。その言葉に、祐巳は一度立ち止まる。 「私には…私には、祐巳さまに見せる顔がありません…!」 「…なんで、そう思うの?」 「…私は祐巳さまのシャーペンを勝手に盗って、それで傷つけて誤魔化して…! そんな私に、祐巳さまに見せる顔なんか…!」 「でも、ちゃんと返してくれたし、謝ってくれたじゃない。」 「…自分が許せないんです…! あんな事をした自分が…!」 「…そんなこと言わないで、こっち向いてよ乃梨子ちゃん。」 乃梨子に言われて立ち止まっていた祐巳だったが、半ば自暴自棄になっている乃梨子に近付き自分の方を向かせようと肩に手を置いた。 しかしその手はすぐに乃梨子に払われ、乃梨子は祐巳から逃げるように二、三歩後ずさって涙目で睨みつける。 「同情なんてしないで下さい!」 「同情なんか…。」 「…これ以上…心を乱すのは止めてください…! 諦めきれなくなってしまうじゃないですか…!」 自分で言っていて、一方的に恋が叶わず自暴自棄になってこんな事を言うのは、かなり自分勝手のことだと感じてしまう。 しかし、本当にもうこれ以上心を乱されると、諦めれるものも諦めれなくなってしまいそうだ。 「…だから…だからもう、これ以上私に…」 構わないで下さい、そう言おうとしたところでフワリと乃梨子の身体が温かい感触に包まれた。 乃梨子は一瞬何が起こったか、全く分からなかった。 「…同情なんか、してないよ…。」 「…ゆ…祐巳…さま…?」 数秒経って正気を取り戻してから、乃梨子は自分が祐巳に抱きしめられていることが分かった。 すぐ隣を見れば、何度も想像した祐巳の顔がはっきりと確認できる。 「…私ね、あの時本当に嫌われてたら、正直どうしようかと思ってた。」 優しく抱きしめたまま、祐巳はまるで子どもを諭すように優しく乃梨子に話しかけていく。 乃梨子はその温もりが少し心地良くて、疲れていた心が少しずつ癒されていく感覚を感じた。 「だからね、乃梨子ちゃんが私のことを好いていてくれてることが分かった時は、本当に嬉しかった。」 「…祐巳…さま…!」 「だから、そんなに自分を責めないで…。」 「………!」 少しだけ力を込めて、ギュッと乃梨子を抱きしめる。 それで少しずつ決壊しかけていた乃梨子の想いが、とうとう限界を迎えてしまった。 どうしようもない感情が、胸に沸きあがってくる。 「本当に、本当に…ごめんなさい…! ご…ごめん…な…さ……うぅ…うわあぁぁ…!!」 祐巳の身体を思い切り抱きしめ、今までの罪悪感、色々な祐巳への想いが涙と声になってもう一度溢れ出した。 もはや嗚咽というよりは、慟哭と言ったほうが良いかもしれない。 祐巳はそんな乃梨子に嫌な顔一つせずに、乃梨子が落ち着くまで優しく、優しく抱きしめ続けた。 「…祐巳さま、あの、一つだけお願いがあるんですけど、いいですか…?」 「なに、乃梨子ちゃん。」 乃梨子はあれから祐巳の胸の中で十分ぐらい泣き続けて、ようやく落ち着きを取り戻した。 それから二人は今、寄り添うようにして桜の木にもたれ掛かっている。 「…もう一度、告白やり直して良いですか? あれはちょっと…本当に酷かったので…。」 「…うん。じゃあ、お願いしようかな。」 二人は木から一旦離れてお互いに向き合う体勢になると、乃梨子は一度咳払いをして気を落ち着ける。 別にこれといった台詞があるわけではない。ただ、どうしても、はっきりと伝えたいことははっきりと伝えたかった。 少しどんな言葉にしようか迷ったが、昨日書いたラブレターの一文だけを思い出した。 お互いにしっかりと見詰め合ってから、乃梨子は口を開いた。 「…祐巳さま、私、二条乃梨子はあなたの事を愛してます…。」 「…うん。…私も。」 この想いは途切れなかった。ということは、きっとこれからもずっと恋に踊らされ続けるのであろう。 でも、それも良いな、と乃梨子は思った。 今までは闇の中でもがく様に一人踊り続けてきたが、これからは福沢祐巳という篝火に照らされて踊り続ける。 きっと、これから、ずっと…。 あとがき: さり気なく結構好きなカップリングである乃梨子×祐巳です。 最初は乃梨子×由乃で書こうかと思ったんですが、ちょっと無理があるかなと感じて乃梨祐巳に。 ちなみに、タイトルと、元ネタ曲である「ジョバイロ」とはスペイン語で「私は踊る」という意味です。 恋に踊らされている乃梨子、というのが伝われば嬉しいなと思います。 うわー、珍しく真面目な後書きだ…。 SSモデル曲:ジョバイロ(ポルノグラフィティ) |