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――聖…―― …懐かしい声がする…。 ――聖…―― もう一度。それは足元から聞こえてくるような、頭上から、隣から、そして頭の中から響いてくるような…。 ここはどこだろう。見回してみても真っ暗な闇しか見えない。だけど、何だか水の中を漂っているような感覚はある。 でも、体は動かせない。まるで何かが体中に絡み付いているようだ。 ――聖…―― また聞こえた。何度も聞いた、自分が深く傷つけた人の…。 胸が苦しくなって目に涙が浮かぶ。いや、水に混ざっていったので、本当に浮かんだのかどうか分からない。 それとほぼ同時に、目の前の闇に人影が現れた。 声の主である、栞の姿が。 刹那、より強大な罪悪感と後悔、自分への憎しみが一気に胸の中に雪崩れ込んできた。 激しく胸の中を引っ掻き回し、心臓ごと心を切り刻んでいくようだ。 あまりの苦しさに、栞へと救いの手を伸ばす。しかし、それに栞は何の反応も示さない。 その目はむしろ、自分を憎み、責め立てている様にしか見えなかった。 ――栞…まだ憎んでるんだね…―― そう言おうとして口を動かすと、ゴボリと口から泡が漏れた。 聖の言葉が通じたのかどうか、反応がすぐには返ってこなかったのでよく分からなかった。 少しして、栞が少し笑った。まるでマリア様のように…あくまで、マリア様のように美しい笑顔で…嘲笑った様に見えた。 それは仕方の無いこと。憎む理由は分かっている。憎まれて当然なのだ。 自分は全てを栞から奪った。得られるべきだったマリア様の加護も、楽しい学園生活も全て…。 全てを奪った代わりに、自分は栞に深い傷を負わせた。完全に治る事の無い、深い傷を…。 そして自分は未だこうしてのうのうと生きている…。 そうしている間にも、胸の痛みは増していく。出来る事ならこのまま死んでしまいたい。 そうすることで、栞が満足するのなら。そうすることで、自分の過去や罪から逃れられるのなら。 やがて、栞が目を背けた。最後に見えた笑顔は、どこか満足そうに、歪んだものだった。 背を向けると、そのまま栞が消えていった。幾つもの蒼い羽になり、水流に乗って彼方へと流れていく。 ――栞…待って…私も連れて行って…―― 口からまた泡が零れた。それもまた流れていく。でも自分は動けない。 まだここから解き放たれる事は出来ないのだ…。 「――ッ!!」 激しい動悸と息苦しさを伴って飛び起きた。全身に嫌な汗をべっとりと掻いて寝巻きが纏わり付く。 またこの夢か、と思う。最近、この手の夢を見る事が多い。…ああ、そうか。もうすぐあの日だからか。 もうすぐクリスマス…自分の誕生日であり、そして栞と別れた日…。 それが自分を無意識の内に酷く責め立てるのだ。あんな悪夢と言う、ありきたりな方法によって。 栞本人がどう思っているのか分からない。もしかしたら本当に憎んでいるかも知れないし、もう何とも思っていないかも知れない。 …それは本人しか分からないが。 悪夢を見た理由は分かった。だからって、この胸の苦しさ、そして罪悪感は決して晴れない。 髪を掻き毟り、蹲って乱れた息を整えようとするが全く効果が無かった。 …またあれしか無いのか。 簡単に巻いていた包帯を解き、左手首に付いた傷を見る。幾つもの痕になった、細長い傷。 幾つかは治りかけで、幾つかはまだどす黒い瘡蓋の状態だ。それを見て、聖は自嘲的に笑う。 夢の中と同じ場所じゃないけど傷つけてあげるよ、栞。これで満足する? 心の中で、夢に現れた栞へと話し掛ける。自己満足で、栞じゃなく自分を救う為だけのものなのだが。 聖は自嘲的な笑顔を浮かべたまま立ち上がり、机のペン立てにあるカッターナイフを手に取った。 力を込めると、チキチキチキと滑稽な音を出して刃が出てきた。 刃には拭き取れていなかった所にこびり付いていて、一層不気味に感じられる。 それを見て、聖は口元を歪めて笑った。これで少しは楽になれる。 あの悪夢を見た日は、大抵の事が心底つまらなく感じられてしまう。 授業は当然だし、休み時間の喧騒、自分のファンの子からの声援、何もかも…。 くだらない、本当くだらない。こんな世界滅んじまえ…荒れた心でそんな事を思う。 昼休み、教室の騒がしさに耐え切れなくなって屋上へと足を向けた。 別に薔薇の館でもよかったかも知れないが、今は誰とも話をしたくないし誰にも会いたくない。 昼食にと買ったパンも食べ終え、手すりにもたれ掛かって何するでもなく景色を眺める。 青い空に、良い景色…こんな気分でなければ、もっと爽やかにこの景色を喜べたかも知れない。 今の気分ではとてもそんなことを思う事は出来なかった。 目を景色から逸らし、裾を捲くって左手首を見た。 出血はとっくに止まり、ガーゼで幾つにも重ねたから包帯に染みている事は無い。 “あれ”をして、自己嫌悪や罪悪感は若干薄らいでいる。息苦しさも無い。でも、悪夢での栞の姿を拭い去る事は出来なかった。 自分の罪の意識が作り出した、歪みきった栞の姿が。本物の栞は今何をしているのだろう。 シスターになる為の勉強をしているのだろうか。こうして自分が荒んでいる間にも。 立派なシスターとして羽ばたく為に…。 不意に誰かの気配を感じ、慌てて袖を戻し腕の傷を隠した。振り返れば、屋上出入り口に二人の生徒がこちらの方を見ている。 雰囲気からして下級生だろう、笑顔を見せ“いつもの優しい聖さま”を演じると少しはにかみながら寄って来た。 ああ、まただ。一人になりたい時に限ってどうしてこうも邪魔が入るのか。 そんな様子に気付きもせずに、二人は相変わらず照れくさそうにしてそれぞれ手紙を差し出してきた。 「白薔薇さま、お仕事大変だと思いますが、頑張ってください。応援してます。」 「私も応援してます! 私も白薔薇さまみたいになりたくて頑張ります!」 一人は緊張気味に、もう一人は興奮気味に言った。その表情を見て、煩わしいような感情が生まれてきた。 私は君たちが思ってるほど立派な人間なんかじゃない、誰からも憧れられるような価値のある人間なんかじゃない…そう叫びたかった。 その衝動を抑え、柔らかく微笑んで手紙を受け取り「ありがとう」と言って握手をした。 それだけすると満足したのか、興奮気味にきゃあきゃあとはしゃぎながら出入り口の方へと戻って行った。 二人を見送ってしばらくすると、貰った手紙へと目を落とす。可愛らしい字で「白薔薇さまへ」と書かれている。 自分みたいな人間がこんな扱いをされて良い筈ないのに。自分はここに居る資格すらないのに…。 憎々しい感情に囚われ、反射的に思わず二枚の手紙を真っ二つに破いた。 普段の自分なら喜んで受け取っただろう。しかし、今の自分はとてもそんな気分では無い。 自分に関わるもの全てが鬱陶しかった、全てが嫌だ。気に喰わない。 その負の感情が自分に向けられた物なのかどうか分からないが、とにかく嫌なのだ。 ビュウ、と強い風が吹いてきて、それに乗せるよう手から破いた手紙を宙に放った。 放られたそれは風に舞ってヒラヒラと宙を漂っていく。 それを見て自分もあんなふうに全てを投げ出してどこかへと飛んで行けたら、と思った。 鳥か何かになって、鼻歌でも奏でてどこまでも。 そしてどこへ行こうか。当ても無く羽ばたいて、どんな景色が見える場所へ…。 そんな世界を想像して、真っ先に浮かんだ映像…栞が居る、どこかの教会が浮かんだ。 修道服を身に纏い、神に対して献身的に祈りを捧げる栞が。それを自分は鳥として傍観しているのだ。 そんな映像が浮かび上がり、胸が痛いぐらいに締め付けられた。勿論これはただの想像で本当の映像ではない。 それでも夢の中の栞と自分が浮かんできてしまい、あの苦しさが込み上げてきてしまった。 この辛い意識から逃れようと胸を押さえている手を離し、左手首に爪を立てて思いっきり喰い込ませる。 今朝付けたばかりの傷に爪が衣服越しに広げようとして鋭い痛みが走る。 傷付けた時ほどの痛みではないが、それでも自分に対する罪を和らげているような気がしてきて少しずつ落ち着いてきた。 「…下らない…全部…こんな世界…自分も…。」 目に涙を浮かべながら、負の感情を呟く。全部全部、壊れてしまえ。そうなれば、もう傷付かなくて済むんだから。 肌を刺すような冷たい風が吹き荒れる中、ただ自分は待っている。この世界が終わる時が来るのを…。 放課後になり、いつもの様に薔薇の館へと足を向けた。 このまま帰りたかったのだが、最近仕事を放棄していて蓉子から今日は来るようにと釘を刺されていたので仕方が無い。 会議室に入ると既に全員が席に着いていて仕事に取り掛かり始めている。 今日は江利子も来ていた。まあ自分と同じように釘を刺されていたから当然と言えば当然か。 「聖、遅いじゃない。」 手を休め、軽く咎める様な目で蓉子は書類から顔を上げた。それにごめんごめんと適当にあしらって席に着く。 席には既に今日の分の書類が置かれていた。どれも大した物ではない、簡単な内容の物ばかりだ。 苦々しく溜息を吐くと横から志摩子がお茶を出してくれた。自分が鬱々している間に淹れてくれたのか。 それを受け取ると、志摩子は美しい笑顔で微笑んだ。自分に向けられるべきでない、美しい笑顔で。 微笑み返して志摩子から目を逸らし、何事も考えないようにと意識を書類へと集中させた。 何も考えないぐらいに仕事に集中してた方がまだマシだ。 一時間ぐらい経って、少しの休憩になった。 ずっと無理矢理働かせていた頭を休めて体を伸ばし、固まっていた節々を解す。 書類に目をやれば既に八割近くの仕事が片付いている。普段の自分ではありえない早さだ。 それほど集中していたのだろうか。 「聖、あなたもやれば出来るじゃない。」 終わった書類の量を見て、蓉子が感心したように言った。まあね、と軽く笑って返して紅茶を一口飲む。 疲れた脳に甘みが行き渡って心地良い。 「…白薔薇さま、気になってたんですけどその腕、どうしたんですか?」 不意に祐巳からそう言われ、咄嗟に左手首へと目を落とした。少しだけ裾が捲れて包帯が見えている…失策だった。 「ああ、これ? …昨日お皿割っちゃって、それで切っちゃった。」 包帯を隠しつつ適当な言い訳をすると、祐巳は驚きと心配の入り混じった様な表情に変わった。 そして慌てて此方へと駆け寄ってくる。 「だ、大丈夫なんですか? 結構包帯巻いてあったように見えたんですけど…。」 「大丈夫大丈夫。だから放っといてって。」 祐巳とそうしている間に、気付けば他のメンバーも野次馬で集まってきた。 そして視線を自分の左手首と顔へと交互に見やり色々と気遣いの言葉を掛けてくる…鬱陶しい事この上ない。 …もういい加減にしてくれ。 「止めろ!!」 沸々と苛立ちが高まっていく中、祐巳の手が傷の部分へと伸ばし反射的にそう怒鳴り手を払った。 ガヤガヤと騒がしかった自分の周りが一瞬にして静まり返り、祐巳の顔からは血の気が引いていた。 「…いや、まだ痛いからつい…ゴメンね祐巳ちゃん。」 心の中で溜息を吐き、笑顔を取り繕って祐巳に謝罪する。祐巳もすいませんでした、と頭を下げた。 それでもう休憩する雰囲気ではなくなってしまい、全員が席に着くとそれぞれ仕事を開始した。 ああ、いやだ、ああああいやだ、ああいやだ。心底全てが嫌だ。関わって欲しくない時に関わらないでくれ。 左手首に目をやる。またここを切ったら少しは楽になれるだろうか。 殆んど片付いていた仕事はすぐに終わり、もう用は無いだろうとすぐに薔薇の館を後にした。 外は大分日が傾いて、茜色と紺色のグラデーションになっていた。まだ茜色の方が配分が多い。 それを見ながら歩いていると、背後から声を掛けられた。 何で今日に限ってこんなに誰かが関わってくるのかとうんざりとして振り返る。 声の主は蓉子だった。険しい顔付きで自分の顔を見ている…今日はこんな顔をしていただろうか? 今一思い出せない。 それに返す様に、感情を隠さない表情で蓉子の顔を見返した。 「何?」 つっけんどんに、棘を含んだように言う。蓉子は気圧される事無く、目を見たまま口を開いた。 「…あなた、もらったファンレターを破り捨てたんですって?」 蓉子の言った事はすぐに分かった。今日の昼休みの事だ。 「…なんで蓉子が知ってるの?」 「ファンレターをあげた子から聞いたのよ。もう一目あなたを見ようと戻ったらそれを破いてて、それから屋上から捨てたって。」 見られてたのか。帰ったと思ってたんだけど、確認が甘かったな。 「可哀想に…泣きながら私に言ってきたわ。どうしてあんなことしたの?」 「どうしてって…私はそんなのを貰うほど価値のある人間じゃないからさ。」 少し怒りを含んだ蓉子に対し、悪びれる様子も無く聖は言う。 それを聞いて蓉子はより不機嫌そうに眉を顰める。蓉子の様子に気を止めず、聖は続ける。 「それに、これで良かったじゃない。これで私はろくでもない人間なんだって事があの子達にも分かってさ。」 全てを嘲笑う、ふざけた様子でそう告げた。蓉子は怒りを堪えているのか、肩を小刻みに震わせている。 これでもう用件は終わったのかと判断し、じゃあねと左手を振って踵を返し帰ろうとした。 だが、駆け寄ってきた蓉子に上げていた左腕を掴まれた。それが気に入らなくて蓉子を睨み付ける。 「…これ、本当はどうしたの。見せなさい。」 有無を言わさない険しい様子でそう言う蓉子。 「言わなかった? 皿を割って切ったって。」 苛立ちが湧き上がってきてその手を無理矢理振り解こうとした。 しかし、それを信じていないのかなかなか手を離そうとしない。いい加減にしないか。 「痛いから離してってば。皿割ったって言ってんじゃん。」 「嘘おっしゃい。皿で切った位でなんでこんな大袈裟に包帯巻いてるのよ。」 「どうでも良いだろそんな事! 離せよ!!」 苛立ちに身を任せて思いっきり腕を振り払い、蓉子はその勢いに負けてそのまま地面へと転がっていった。 しかしそれでもすぐに身を起こし、自分の方を睨み付けて来る。 そんな蓉子に心底うんざりして、同時にいっそこの事を全て話したらどういう反応をするんだろうという興味が沸き起こった。 薄ら笑いを浮かべて裾を捲くり、その包帯部分を見せると蓉子は驚いた様子で目を開いた。 「見せれば満足するんだね? じゃあ、全部見せてあげるよ…。」 蓉子は驚いたまま何も言わない。 そりゃそうだ、さっきまであんなに抵抗していたのに、今度はへらへら笑いながらそれを見せようとするのだから。 包帯を解いていき、血が固まり貼り付いていたガーゼを剥がす。 その部分を見て、そこの状態を理解した蓉子は口元を手で押さえて息を呑んだ。 ガーゼを剥がす時に瘡蓋も一緒に剥がれたのか、そこから新たな血が流れ出している。 その今朝付けた新しい傷以外にも、どす黒く治り掛けている傷や、傷は埋まったものの変色してしまった幾つもの傷痕が見える。 「これさあ、いわゆるリストカットっていうやつ? これやると何だか凄く落ち着くんだよね。」 晒された傷口を指で突付きながら言った。ぶよぶよとした感触が指に伝わり、どことない高揚感が生まれてくる。 流れた血液が指に付き、それを舐め取ると一層気持ちが昂ってくる。 「…なんで…。」 恐ろしい物を見るような目で、声を震わせながら蓉子が消え入りそうな声で言った。 おやおや、見たいと言ってきたのはそちらなのに、実際見たらその様ですか。 昂る感情は止まる事を知らない。表情が少しずつ変わっていくのが自分でも分かる。 恐らく正気では無い笑顔を浮かべているのだろう。 「何でって。私さあ、まだ栞に囚われてるみたいなんだ。」 「栞さん…?」 「うん。夢に出てきてね、散々私を責めるんだ。『あなたさえ居なければ何も失わずに済んだのに』とか。そう、目で言ってくるんだ。」 「それは…それはただの思い込みよ…。あなたが勝手にそう決め付けてるだけ…。」 「私もそう思うよ。…ただ、それもただの思い込みって事もあるじゃん。本当は憎んでるのに、自分が気付いてないとか。」 栞が私を憎んでいたとしてもおかしくない。むしろ当然だ。 「その夢を見た後は凄く苦しいんだ。罪の意識とか、自分への憎悪とかがぐちゃぐちゃに混ざっちゃって。 …でもね、前にその夢を見た日にちょっと怪我をしたんだ。その傷口を見たら何か、落ち着いたんだよね。それが始まり。」 ふらふらと焦点を合わす事無くすぐ辺りを動きながら言う。もはや目に映っているものを認識する気も起きなかった。 地面の色が、校舎の色が、空の色が、もはや立体ではなく色のみで表されている。 「それからねえ、あの夢を見た日はカッターでここ切るようになったんだあ。最近見る事多いから、切る回数も増えちゃってねえ。」 蓉子は何も言わない。いや、怯え切ってしまって何も言えないのか。 様子を認識しようと見つめると、体がより強く小刻みに震えている。 それがおかしくて、ますます興奮してくる。同時に、強い破壊衝動も湧き上がってきた。 「…それに、もう嫌なんだよ。」 正気を失った笑顔を失くし、変わりにあらゆるものへの憎悪を露にした表情へと変わる。 「こんな、こんなくっだらない世の中の全てが、栞のいなくなったこの世界の全てが!!」 へらへらした様子から一辺、負の感情を一気に口から吐き出す。 しかし幾ら吐いても吐いても、それは治まらない。 「消えちまえば良いんだよ! 全部全部! この世の中の物全部!! こんなくっだらねえ自分も世界も滅んじまえば良いんだよ!!」 狂ったように…いや、完全に狂ってしまった聖は叫び散らしていく。 壊したい壊したい壊したい。この世の中の物、人、自分、全てが一瞬で消えちまえばいいのに。 思いっきり目立つ物を壊してやりたい。それも派手な方法で。 そして壊したい時にいつも向けられる矛先は自分。栞に対する罪悪感や自己嫌悪を薄めるのも、自分が標的だ。 ぶっ壊してやりたい、こんな世界消してしまいたい、自分も消してしまいたい…それらが繋がった時、一つの答えが導き出された。 ああ、何故こんな簡単な答えが今まで出なかったのだろう。それが分かった途端、聖は狂ったように笑い始めた。 我ながら不思議に思う。こうすればもっと早く解放できたのに。 「…せ…聖…?」 突然笑い出した聖に、蓉子は怯えながら声を掛けてきた。 それを聞いて、聖は狂った笑顔のまま振り向いて蓉子に少しずつ近付いていく。 蓉子はそんな聖に対して、恐怖に表情を歪めて後退りするしか出来ない。 「蓉子さん、ここで問題です。この世をぶっ壊す、一番手っ取り早い方法は何でしょう?」 ふざけた様子で訳の分からない質問をされ、一層怯えて後退りする。 蓉子が答えないので、笑顔を変えずに聖が自分で答えた。 「時間切れー。正解は…自分をぶっ壊すことでーす。そう、自分をぶっ壊す…そうすりゃあ、こんな世の中おさらばだっつーのぉ!!」 最初はふざけた様子だったのに、途中から一変して先程の、いや、先程よりも激しい様子で叫ぶようにして言った。 激しく怒っているような、それでいて可笑しそうな、そんな感情が表情から読み取れる。 「ずっと気付かなかった…ずっと気付かなかったけど、さっき気付きました。そう、ついさっき気付く事が出来ましたーっ!!」 まるで万歳をするかのように両腕を突き上げ、またふざけた様に絶叫する。 言い様の無い異常な高揚感と破壊衝動が聖の心と頭を支配し、全てを狂わせていく。 何かが憑依したように思いっきり笑い声を上げて、涙と涎がそれぞれ溢れ出した。 「ちょっと、聖どうしたの!!」 笑い声の中、普段では出さないような江利子の大声が聞こえて来た。 笑うのを止め、声の方を見ると江利子を初め皆が向こうから駆け寄ってくる。もう仕事は全部片付いたのか。 その姿を確認すると、弾かれるように聖は反対方向へと駆け出した。 「誰か、誰か聖を止めて!! このままじゃ…このままじゃ聖がぁ!!」 背後から絶叫とも近い悲痛な叫びが聞こえて来た。それに耳を貸さずに笑いながらひた走る。 上履きに変えず、土足のままで校舎へと飛び込んだ。途中すれ違った生徒達は目を丸くして聖を見送った。 途中教師やシスターともすれ違ったが、その異常な様子に気圧されて注意する事はおろか声を掛けることすら出来なかった。 プリーツもセーラーカラーも思い切り乱し、階段を駆け上っていく。 一階、二階と駆け上っても全く息が苦しくならない。高揚感がそれらを全て抑えていた。 やがて最上階まで駆け上がり屋上の扉を開けると強い風が吹き荒れていた。 地上にいた時は強いとは思わなかったが、ここまで来ると結構なものだ。 聖は屋上に出ると手摺を乗り越えて辺りを見渡した。 空は更に暗くなり、夕日は半分以上が沈んでいて殆んど紺色が占めている。 地面の方は、薄暗いが何とか見て取れる。…あの忌々しいマリア像も。 「…次は鳥にでもなって生まれてきたいなあ…。」 自分は栞を不幸にした。それも決して償えない、深い傷を与えて。 その罪滅ぼしという訳ではないが、風になびかれながらそんな事を思った。 幸せを運んでくれるとよく言う、青い鳥。自分がそれになって、本当に幸せにする事が出来る事は分からないが。 それに、そう出来なくても鳥なら自由にあちこちへと飛びまわれる。…人間に捕まらない限りは。 もし捕まったりしたら、それはまだ前世…今の佐藤聖の時の罪が重すぎたという事だろう。 それならばそれで結構…少なくとも今の世界、自分からは逃げられるのだから。 屋根の縁にある段差に足を掛ける、それと同時に後ろから騒がしい音が聞こえて来た。 興味なさげに振り返ると、蓉子が息も絶え絶えといった様子で開け放ったドアにもたれて涙を流しながらこちらを見ている。 「聖、お願い。馬鹿な真似はやめて…!」 「蓉子…ほんと、何で誰とも関わりたくない時に限って誰か来るのかなあ今日は。」 空の彼方を見て、自嘲的に笑う聖。その目に蓉子は映っていないようだ。 「危ないから戻ってきて! お願いだから!」 泣きじゃくってそう懇願するが、それに対して聖はつまらなそうにゆっくりと目を向ける。 その目を見て深い絶望を蓉子を覆った。声が全く届いていない、そう感じた。 ――聖…―― 聖の耳に夢の中で聞いた栞の声が響いてきて、背後…縁の方へと振り向いた。 「栞…今までごめんね…中途半端にしか自分を壊さなくて…。」 空の彼方へと涙を流しながら、妄想の栞へと謝罪する。 夢の中と変わらない様子の栞が、空の中に見えた。 ごめんねごめんね、でも、今から栞が一番見たかったところが見られるよ。それで満足してくれる? 段差の上で体を反転させ蓉子がいる方を向くと、まるで安堵した様な笑顔で思い切り手を広げた。 薄暗い中のその聖の姿が、蓉子にはまるで巨大な黒い十字架の様に見えた。 もはや聖の頭の中に目の前にいる蓉子の存在は無い。あるのは栞の姿だけ…。 やがて突風が吹き、それに逆らう事無く聖は身を任せた。同時に足元の感覚が消え、世界が反転して見えた。 自分がいた所から蓉子の絶叫が聞こえた様な気もしたが、それも曖昧で本当なのかどうなのか判断し難かった。 吹き荒れる風と重力に身を任せながら目を閉じる。その瞼の裏に栞の姿がはっきりと見えた。 優しくて柔らかい、ただそれだけの美しい笑顔。その中に、夢の中の邪悪な意識は見えない。 ――ああ…やっと許してくれるんだね…栞…―― そう思って、心底安堵した。これでもう自分からも何からも安心して解き放たれるのだ。 そして、自分は自由に羽ばたいて行けるのだ。 どこまでも、どこまでも…。 あとがき: 初のダークSS…ちょっとやりすぎましたかね?(汗) ダークSSもいつかは書きたいと思っていて、その時に突発的に浮かんだ物です。 最大の見せ場は蓉子さまと壊れた聖さまの見せ場だと思うんですが、どうでしょうか? このシーンは書いてて楽しかったです(ぇ) ちなみに、このシーンはモデル曲のタイアップになっている映画「悪夢探偵」のワンシーンをモデルにしたものです。 SSモデル曲:蒼い鳥(フジファブリック) |